雑記

id:rekihiko5さんよりトラックバックを頂いた。ブログとツイッターを再開されたようである。

rekihiko5さんからは気にしなくて良いとのコメントを頂いたとは言え、私の無思慮なコメントが前回の閉鎖騒動を起こすきっかけとなった事は事実で、罪悪感を感じていた。

無事復旧されたようで、一安心である。

なお、今回トラックバック頂いた内容についての返信は、一旦控えたいと思っている。パール判事に関しての議論は(私の中では)やり尽くした感があるし、また不用意な事を書いてしまわないとも限らないからである。私はパール判事を尊敬しているし、その人格の高潔さをいささかも疑っていない。しかしそれを他者に対し理解させようとするのに、私の稚拙な表現力では難しい面もあるだろう。

君が代問題で争うべきこと

君が代がいやなら教員(公務員)を辞めればいい。職業選択の自由はあるんだぞw(ドヤッ

引用先の秋原葉月さんは、橋下市長に対して極めて批判的な意見をお持ちのようである。

私はこれまで何度か君が代問題を取り上げて来たが、かの「大阪府君が代条例」については余り触れて来なかった。触れる必要が無かったというのが正直なところである。

そもそもこの条例は、「君が代に批判的な意見を持っていて、式典の場でそれを表明したい」教員に対してのみ効力を発揮するものであるという点に注目したい。元から立って歌っているその他の教員にとっては、「それがどうした」で済まされる程度の条例である。君が代問題を考える上では、君が代条例の是非よりも、そもそも国歌斉唱命令が妥当であるか否かが重要であると考える。これも断言するが、「国歌斉唱を思想・信条の問題と捉え、それを拒否する教員」がいない、言い換えれば「君が代問題」そのものが無ければ、このような条例は存在すらしなかったはずである。事実君が代問題は条例が出来る前から発生しており、条例の是非を中心に添えても余り意味は無いのでは無いかと言うのが私の意見である。

問題になっているのは、「式典での国歌斉唱時に、教員に対し起立斉唱を命令する」という職務命令が憲法19条に違反しているのではないかという事である。要するに「歌いたくない教員にとっても強制で歌わせる事は、その教員の思想・信条を侵害する行為」であるという事のようだ。少なくとも、不起立の立場を取る教員がそのように主張している事は確かである。

ただ「君が代条例」そのものが憲法違反を犯しているか否かについて判断するのは、教員でも学校でも大阪府でもなく、裁判所(厳密には最高裁判所)である。教員が「思想信条を侵害された」と主張しただけでそれが認められる訳では無い事は注意しておく必要がある。

過去の最高裁判決を見る限り、国歌斉唱を強制する行為が憲法19条に違反するという事実関係を認めた例は無いというのが実情である。まずもって学校行事の中での国歌斉唱は、あくまでも「慣例上の儀礼的な所作」という位置づけで、何らかの思想信条を押し付けている訳では無い。その為、教員個人の歴史観何ら直接的(又は明示的)に否定しているとは見なされないという内容である。

確かに最高裁の判決は、教員の言い分を却下している。しかし良く考えてみれば、別に教員個人の思想・信条を否定するもので無い事は勿論の事、「国歌斉唱時に起立斉唱する行為」がそれを侵害していない事を認めている。要するに、教員が起立斉唱したとしても、自身の思想・信条を侵害したと感じる必要も無いという事を示しているのである。

まあ勿論、これで納得するのならこの問題がここまで泥沼化するはずも無い。ただ一つ言えるのは、まず「思想信条を侵害された」と主張する場合は、それを立証して見せる必要があるという事だ。例えば過去の最高裁判例によれば、そもそもその行為自体は式典の儀礼的所作の一つに過ぎず、それ以上でもそれ以下でも無い。そこに特定の思想を押し付ける意図などは無いという事である。要するに、まずは「国歌斉唱命令によって特定の思想信条を押し付ける意図(悪意)」を客観的に証明して見せなければ話にならないのである。それが証明されていない現状では、ただの儀礼的所作の一つに過ぎない国歌斉唱行為に、一部の教員がありもしない「特定の思想の押し付け」の意図を勝手に汲み取った挙句、そのような思想を職務の場に持ち出して式の遂行を乱していると見なされても仕方が無いように思えるのだ。

この問題は良く「国歌斉唱を肯定する右派」と「国歌斉唱を否定する左派」の対立という構図として捉えられがちであるが、私からすると「左派の一人相撲」にしか見えないというのが正直なところなのである。