南京事件は事後法だから無罪?

以前議論させて頂いた藤原彩女さんより、またトラックバックを頂いた。

「【雑文】南京事件は事後法で裁かれたのか?」
http://unaccompaniedrequiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-92a1.html

まず当該エントリーのタイトルは、「南京事件は事後法で裁かれたのか?」という問いかけである。

東京裁判で裁こうとしたのは、

 1、平和に対する罪
 2、人道に対する罪
 3、通例の戦争犯罪

の3つであるが、当時の国際法上成立したのは3だけだった。

南京事件は、この内の3で裁かれた事件である。よって事後法で裁かれている訳では無いというのがその回答になるだろう。

>いや、仮に違法ではないとする。南京事件への判決が事後法によるものであったと仮にしてみる。が、数十万人の生命を奪い、放火掠奪強姦を散々っぱら繰り広げておいて「事後法なんで無罪でーす」とかはちょっとないだろう。

パール判事は、南京事件を事後法だから無罪であるなどとは言っていない。本来事後法として棄却すべき、「全面的共同謀議」について、それが無い事を判決書の半分以上の膨大な分量を費やして証明している。東京裁判が事後法で裁いたから不当だと言う意見は良くあるが、パール判事は「事後法だから駄目だ」などという単純な理論だけで東京裁判を批判したのではない。

「数十万人の生命を奪い、放火掠奪強姦を散々っぱら繰り広げた」張本人が東京裁判の中にいたのであれば、パール判事であっても有罪判決を下した可能性はある(ただしその場合の事実認定は、より厳密に行う事になるだろうが)。しかしそのような人物は、東京裁判で起訴された被告の中にはいない。裁判での争点は、松井石根含む9人の前線で指揮を執った軍人に、間接的にそれらの残虐行為に加担(命令、授権含む)した事実があるか否かであり、それに対しパール判事は無罪としているのである。「訴追されているような命令、授権または許可が与えられたという証拠は絶無である」(パール判決書(下)より)

南京事件が事後法で裁かれたのか否かを争点をするのであれば、「いやそんな事はないですよ」で済ませても良いのだが、藤原彩女さんが仰りたいのはやはり下記のような事ではないだろうか?

>「松井石根の罪」は事後法かもしれない。議論の余地もある。だが南京事件自体は「非戦闘員大量不法殺害」という、当時のハーグ陸戦条約の観点からも、そしてなによりも、人道的や道徳的な観点からのれっきとした犯罪ではないだろうか。

これまで何度も取り上げて来た事であるが、人道的や道徳的な観点からその行為を非難する事は可能であるが、それを罪として裁こうするのであれば、その道徳が法に昇華した上で行わなければならない。

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「法による正義の優れている点は、裁判官がいかに善良であり、いかに賢明であっても、かれらの個人的な好みやかれら特有の気質にもとづいて判決を下す自由を持たないという事実にある。戦争の侵略的性格の決定を、人類の『通念』とか『一般的道徳意識』とかにゆだねることは、法からその判断力を奪うに等しい」
「どのような法の規則にせよ、それは流砂のように変転きわまりのない意見や、考慮の足りない思想といった薄弱な基礎のうえに立つものにしてしまってはならない」(パール真論:254ページ)

※パール判決書の原文ママ

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そもそも有史以来、道徳的責任の無い戦争など成立した試しは無い。

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「そりゃ日本の戦争にだって、道徳的責任はあっただろう。日本の戦争が無謬だったなんて誰も言ってない。それと同時に、日本と戦ったアメリカにイギリスにも、ソ連は当然、そして中国にも、道徳的責任はあったのである」
「それなのに、他の国の不道徳には目をつぶり、日本にだけ「道義的責任はあった」とサヨクはしたがる」(パール真論:144ページ)

※筆者である小林よしのり氏の言葉

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勿論、藤原彩女さんが「他の国の事なんて知らない。日本の戦争に道義的責任はあったかどうかが重要だ」と思われるのなら、それは自由である。


締まりの無いエントリーではあるが、以上である。

※補足。パール真論からの引用で、パール判事の言葉と小林氏の言葉の区別が付き難いと判断した為