外交官「重光葵」


重光葵は、敗戦後に米艦ミズーリ号で降伏文書に調印し、A級戦犯として東京裁判に起訴され、釈放後に日本の国連加盟時に国連総会で演説した人物として知られる。


重光葵が「A級戦犯」として起訴されたのは第4次戦犯指名時である。GHQには重光を逮捕する意向は無かったが、ソ連検事の極めて強い要請に屈した形での予想外の逮捕だった。ソ連が重光の逮捕を強く要請した理由としては、彼が駐ソ大使時代に起きた「張鼓峰事件」が関係していると言われる。重光は国際世論に事件の状況を逐一訴えかける事で欧米の同情を買う事に成功し、ソ連に非難の矛先が向けられるように仕向け、停戦交渉を成立させる(結果的にはソ連側の主張する国境線で終結した為、ソ連の勝利と見て良いとも思えるのだが、欧米では日本の外交的勝利であると評価されてしまい、ソ連は面目丸つぶれとなった)。よって、重光はソ連の私怨だけで戦犯指名されたのでは無いかと言われている。

重光はまさに激動の時代に外交官を務めていた。上海事変の停戦交渉に尽力し「日華停戦協定」の調印までこぎつけるが、調印式の当日に爆弾テロにあい、右足切断という大怪我を負った。にも関わらず、手術を受ける前に調印を済ませている。この時、テロの実行犯が朝鮮独立運動の人物だった事について、「中国人が関わっていないなら停戦協定に影響は無い」と発言したとされる。その勇敢さはイギリス公使にも高く評価された。個人的に印象深いのは駐英大使時代だ。第二次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がフランスを降伏させた。イギリスも時間の問題だとされていた。しかし重光は現地の戦況やイギリス人の高い士気などからイギリスは負けないと分析し、「日本は欧州戦争に介入してはならない」と本国に強く訴えかけた。しかしその声もむなしく、松岡洋右外相は「日独伊三国同盟」を締結してしまう。ベルリン・ローマで必要もない英米非難の声明を出して快気炎を上げた。結果的には重光の読みが当たっていた(ただ松岡外相をこれだけを元に無能と評するのは酷だろう。当時絶頂期のナチス・ドイツの勝利を確信していたのは松岡だけでは無い。重光の観察眼がそれだけ優れていたと見る方が的確だ)。

彼の戦前の外交官時代の実績を見れば分かるとおり、軍閥に反対し、和平と国交維持に尽力した外交官だった。GHQもそれを理解しており、戦犯指定するなどという発想自体が本来無かったのである。しかし重光自身は、戦犯指定を過度に悲観する事も無く、「彼らの為さんとする所を静観するのは極めて興味深いことである。天は果たして何を裁くか。それを見るのはむしろ面白い」と好奇心を抱き、「我は今尚此処において国際場裡に立って居るのである」と肝の座った決意表明をしている。実際重光はA級戦犯の中でも唯一の冷静な観察者として「内部から見た東京裁判」を克明に記録している。「東條英機」のエントリーで挙げた人物評も、巣鴨プリズン内の重光の言葉である。東京裁判の冒頭陳述でキーナン主席検事の「文明の裁き」という文言に対し、「宣伝芝居の観深し。果たして之によりて文明は救はれ平和は将来に確保せらるべきや」と皮肉交じりの言葉からも見て分かる通り、戦犯の当事者と言った事は一切関係も無く、極めて客観的に状況を把握していた事が分かる(下手をすれば自身にも死刑判決が下るかも知れない極限状態であった事(裁判開始当初、検察側は被告全員の極刑の主張していたそうである)を考えると尚の事「凄い」の一言に尽きる)。

なお、重光の裁判については、有能なファーネス弁護人などの尽力は勿論、外交官時代に築き上げた信頼で、英米からも重光を擁護する多くの証言が得られた事もあって、終始有利に展開したとされる。最終弁論でのファーネスの「私は本被告(重光)を弁護したことを誇りとするものでありますが、被告が何故ここで弁護を受けねばならないかは徹頭徹尾理解できないのであります」と言う言葉が印象的である。ごく一部を除き、重光の無罪は疑うべくも無いと思われていた。

しかし重光に下った判決は、禁固7年の実刑判決だった。判決の内容は「開戦後に外相として協力した事」など無理矢理なこじつけだったと言わざるを得ないものだった。ソ連を満足させるための、英米判事の政治的妥協による判決であることは誰の目にも明らかだったと言われている。

不当判決と憤ってもおかしくない状況であるにも関わらず、当の重光は「私は、終始戦争に反対したことを裁判所が承認し、戦時、戦争に協力したことを有罪としたのはむしろ誇りに感じた。自分は戦争となって応分の事をなした事は最も誇りとする所である」と感想を記している。

その後2年の巣鴨生活を経て仮釈放となる。公職追放が解除されると直ぐに政界に復帰する。鳩山政権時に外務大臣に就任し、首相の「日ソ国交回復」を念頭に置いた日ソ交渉に着手する。しかし領土問題等で平行線を辿る一方で交渉はまとまらず、「ソ連案を呑むしかない」と東京に打電する。結局日ソ交渉は鳩山首相自身が引き継ぎ、領土問題を棚上げして「日ソ共同宣言」を結ぶ。この時の重光の外交姿勢の「急旋回」は様々な憶測を呼んだが、重光は真意を語らなかったとされる。

ともあれこれまで拒否権を発動したソ連との国交は回復し、日本は国連に加盟する運びとなる。1956年12月18日の国連総会での重光の演説は有名である。

「わが国の今日の政治・経済・文化の実質は過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において「東西の架け橋」となり得るのであります。」

重光の生涯最後の大仕事となり、彼はその一月後に狭心症の発作で死去する。なお国連総会から帰国後、加瀬俊一に対し「有難う、もう思い残すことはないよ」と語っていたとされ、彼自身死期を悟っていたのかも知れない。


重光葵はその実績が物語る通り、極めて優秀な外交官であった。その卓越した観察眼は自身の外交手腕に存分に発揮された(ある意味で東條英機に最も欠けていたものを持ち合わせた人物だと言えるのでは無いだろうか?)。例えどのような大国が相手であろうが、自分の立場がどうであろうが、場の空気に流される事が無く客観的に物事を判断する事の出来る人物だったのである。彼は戦前から軍人を辛らつに批判し、戦争に反対する立場を常にとっていた。ただ注意が必要なのは、だからと言って戦後の反戦平和主義者などと同じなどという事は無いという事である。彼は、戦前は軍部に擦り寄って戦争を煽っておきながら、敗戦後にはGHQに擦り寄って軍部を犯罪者扱いし、自分は初めから平和主義者だったかのようにふるまう二枚舌のマスコミや大衆を心底嫌悪していた。戦前から世論や興論に流される事なく戦争回避に尽力した重光が、何故か戦争の責任者として逮捕される等という理不尽極まりない状況におかれたにも関わらず、むしろそれを「誇り」とまで言ってのける彼にこそ、戦前日本の戦争を非難する資格があったのでは無いだろうか?

参考文献:「いわゆる『A級戦犯』」