君が代が嫌なら無い所に行け

君が代を強制されることに心理的な不安をおぼえることは笑いごと?」
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20120107/1325957836

これは井前弘幸氏の主張だそうであるが、
>過去の日本において、キリスト教徒を判別して抑圧するために踏み絵が使われた歴史を、たいていの小学校で習っていると思う。その授業において、踏み絵を踏まされる側の精神的な問題と教えられただろうか。
もちろんそうではあるまい。踏み絵はキリスト教が弾圧された歴史の一つとして教えられたはずだ。教育者が一貫性を持とうとするならば、精神の問題とだけとらえ、行為の強制を肯定することなどありえない。
そして仮に、大多数ではないという意味で普通の人ではないからと、信仰を捨てられない人々へキリスト教を攻撃するようしむけるならば、それこそが「精神的虐待」に他ならないだろう。

それなら、君が代を歌うように指導している教育委員会は、一体なんの宗教を抑圧しようとしているのだろうか?「踏み絵を踏む行為」がキリスト教徒にとって耐え難い苦痛であるというのはまだ分かるのだが、「君が代を歌う行為」が一部の教員にとって耐え難い苦痛であると感じる理由は何か?彼らは「思想信条の自由」という一般論を持ち出して反論はするものの、その「思想信条」というのが具体的に何なのかについては余り触れていない。更に言えば「君が代を歌う事」が、彼らの「思想信条」を具体的にどう侵害するのかを彼らは一切説明していないのである。要するに、キリスト教徒弾圧問題と等価で扱うには無理があると言わざるを得ないのだ。

>私個人の話をするならば、強制される行為を自身の内面と切り離すことは不可能ではない。たとえば白地に赤丸の模様が描かれた布くらい、平気で踏みつけることだってできる。逆に、死罪にならなくてもすむならば、特に好きでもない歌を口ずさむことだって容易だ。その様子を日記に書くことだって難しくない。

  ※AA省略

いや、本当に容易だってば。馬鹿にしていないってば。
何なら「白地に赤丸の模様が掛かれた布」とか言うのを踏みつける様子も日記に書いて頂きたいものだ。「日の丸」なら問題になるだろうが、「白地に赤丸の模様が掛かれた布」なら何の問題も無いとでも言いたいのだろう。好きにすれば良いでは無いか。

>特に好きでもない歌を口ずさむ
そもそも「君が代」が好きか嫌いかなんて考えた事が余り無い。J−POPじゃあるまいし。ただ「君が代」が日本の国歌であり、そして日本に在住している以上、「君が代」を歌う機会は一度位はあるだろう。それだけの事である。そしてこれも確実に言える事であるが、「君が代」を口ずさむ程度で青筋立てているような人間は、「好きでもない」のでは無く明確に「嫌っている」のである。

私が君が代を歌う機会があるのは年に一度だけであるが、それ以外の場で口ずさむ事も無ければ、普段聞く機会も無い。「君が代」は「歌いたくないから歌わない」歌でも無ければ「歌いたいから歌う」歌でも無いのだ。


例え君が代を拒否する教員が(小林よしのり氏が言う所の)「薄らサヨク(「日本に戦争責任あり」という感覚が絶対不可侵の大前提になっていて、目にウロコどころか、頭蓋骨の内側にコールタールをべったりはりつけているようなウルトラ偏見脳の人間(パール真論:151ページ))」であったとしても、教科書に書いている内容を生徒にきちんと教える事が出来るのであれば何の問題も無い。教員が左派であってはいけない等とは断じて言わないし、その思想信条を無理矢理変えさせるのは流石にやりすぎだろう。ただ「君が代」問題は、その思想信条が妥当であるか否かなどが論点になっているのでは無い。それを抜きにして職務を果たせるか否かが問題なのである。

内心がどうあれ、公の場で君が代が歌えるか(勿論歌詞を知らないとか言う意味では無い)どうかが問題である。それは「卒業式」という行事をつつがなく進行させる職務を果たす能力があるか否かという問題になる。自己を抑制できず、その程度の事で体調を崩す程にまでに忌避感を覚えるのであれば、残念ながら社会人としての資質を疑わざるを得ない。

君が代」がどうしても身体に良くないのであれば、「君が代」の無い場所に自分が移動するのが筋であろう。余りネット右翼に迎合するような論調で記事を書くのは本意では無いが、学校の卒業式で「君が代」を歌う歌わない程度の事で一々教育現場に混乱を持ち込む教員に憤りを覚えるのは私も同感である。