「道義的責任」の用法(私事な愚痴多め)

実家の母がパートを辞めた・・・。肉体的に限界が来たらしく、勤め先から身体を気遣う形で退職を勧められたようだ。年齢的にも引退する時期であり、仕方ないと言えば仕方ない。

現在母は自身の稼ぎと、私の仕送りで生活している。仕事を辞めた以上、私がその分仕送りを増やさなければならなくなる訳で、一層やり繰りが大変になる事は必然である。

ところでふと思いだした事があるのだが、私の家族は実質的な母子家庭であった為、母がひたすら働いて私を養って来た。私が学校で「生活保護」なるものがある事を学んだ時に、何故母がこれを受けないのかと疑問に思った事がある。当時私の家族が条件を満たしていたかどうかは分からないが、いずれにせよ母には申請する意思が無かった。当時子供だった私は生活保護を利用せずにわざわざ苦しい道を選ぶ母の心情が理解出来なかったのであるが、今の私にはその理由がはっきりと理解出来る。

仮に当時、生活保護を受給したとすると、恐らく生活は厳格に監視される。母当人は勿論、子供である私も窮屈な生活を強いられた事だろう。また支給そのものに対する負い目のようなものもあるだろう。生活保護は支給額だけを見ると結構恵まれている印象を受けるかも知れないが、実際に支給されている家庭はそんなに楽ではないと思われる。「必要最低限の生活の保障」であるが故に制約は多いはずで、自分で稼いで生活を維持出来るなら、それを選ぶ受給者も相当数いるのでは無いだろうか?私の家庭は貧しかったが、母の尽力もあってギリギリ生活保護に頼らず乗り切る事が出来た。自身のプライドも関係したのかも知れないが、今にして思えば私が将来それを負い目に感じる事を怖れた事が一番の理由では無いかと思われる。

勿論私は現在生活保護を受給されている方々に対して、それを負い目に感じろなどと失礼な事を言うつもりは毛頭無い。人それぞれに事情がある。生活保護を拒否し続けた私の家庭の価値観を他者に押し付けるつもりなど無いし、それを自慢するようなつもりも無い。ただ私には、生活保護に頼らずに私を養った母を、どんなに苦しくても生活保護に頼らせずに養う「道義的責任」があるという事だけは確かである。本来、法的にそこまでの義務は私には無いのかも知れない(私の年収なら「養育は無理」と言って生活保護を申請しても通るとは思うし(申請した事が無い為、ただの想像だが))。しかし申請が通るか通らないか以前に、私がそれを道義的に是としないというだけの事だ。勿論この考えは、他者に押し付けるようなものではないし、共感も同意も一切求めない。ここで主張したいのは「道義的責任」とは自らの良心が決定するものであり、他人がそれを義務として押し付けるような性質のものでは無いという事である。

「戦前日本はアジアを実質的に侵略した。その道義的責任がある」などと安易に「道義的責任」を用いて戦前の日本を非難している左派には、その意味を良く考えてみて欲しいものだ。

まあ、やり繰りが今後大変になる事は確かであり、頭が痛い事は事実である。同居ならともかく別居だし、家賃や水道光熱費等も別々に取られているというのが痛い。私の少ない収入では如何ともしがたいのも否定出来ないのだが、切り詰めるだけ切り詰めていくしか無いなあ・・・。

生活保護についての知識は例によって全く無いので、間違いや勘違いがあれば申し訳ない。