パール判事の共産主義の認識が粗雑であるか

共産主義の脅威」という粗雑な認識
http://taimen.hatenablog.com/entry/2014/03/01/120310

こちらの記事では、「パール判事の共産主義認識はこの際置いといて」とある為、少々論点がずれてしまうが、私はあくまでもパール判事の認識について語るつもりなのでそれはご容赦頂きたい。

そもそもパール判事が自身の反共イデオロギーを元に共産主義の危険性を訴えたというrekihikoさんの誤謬を正す事が目的であった為、絶対的な知識量が違うrekihikoさんには太刀打ち出来ないというのが正直な所である。
私の共産主義認識が粗雑である点は否定しない。そもそも私自身、熱狂的な反共主義という訳でもないし、rekihikoさんだって共産主義支持者という訳でも無いのだろうから、そこを深く掘り進んで議論しても不毛だろう。

前回の記事でも触れたとおり、共産主義脅威論が、20世紀前半の頃は現在程強く無かった事実であろう。しかしロシアという大国が社会主義国家に変貌した事によって、共産主義への警戒感が発生または強まった事は紛れも無い事実である。

長い引用になるが、

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ここで共産主義自体がたんに異なったイデオロギーの発展とは見られないということに注意するのも、また当をえたことであろう。国家および財産に関する共産主義的理論と、現存の民主主義的理論との間には、重大な根本的相違がある。一口に言えば、共産主義とは「国家の衰亡」を意味し、またはそれを企てているものである。伝統的のフランスおよび英米の民主主義は、がいしてロック、ヒュームおよびジェボンヌの哲学にもとづいて、かつそれに英国国教またはローマ・カトリック教あるいはアリストテレスの哲学的仮説を点綴したものである。ロシア共産主義マルクス哲学を基礎としている。
たしかに「民主主義」および「自由」という言葉は、共産主義的理想に関連してもまた用いられている。しかし、その場合には、根本的に異なった意味をもたせられている。共産主義的理想における「民主主義」とは、今日行われている「民主政治」の衰滅を意味し、また暗示している。共産主義的「自由」の実現の可能性は現在の民主主義国家組織が消滅してはじめてあらわれるのである。

レーニンいわく、「ひとり共産主義社会においてはじめて、すなわち資本主義者の抵抗が完全に挫かれた時、資本主義者が影を絶った時、階級がなくなったとき・・・(いいかえれば、社会の構成員の一人一人が自発的にマルクス哲学を受け入れる時)その時こそ初めて『国家・・・は死滅し』その時においてのみ『自由を論ずることが可能となる』。そしてかようにしてこそ民主主義自体が死滅しはじめるのである。・・・ただ共産主義だけが真に完全な民主主義をもたらしうるのである。そしてその民主主義は、完全なものであればあるだけはやく不必要になり、ひとりでに死滅してしまうのである」。

このように、ロックないしヒュームの哲学に立脚した民主主義に関する共産主義の態度は確立している。(パール判決書(上):503〜504ページ)

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改めて注意しておくが、別にこれはパール判事ご自身の思想信条でも何でも無いし、その後に「かような感情が正当なものかどうかは本官の論ずべきことではない」と記述されている。共産主義が、それを信奉しない者にどのように見えていたかを客観的に記しているだけである。このような危機感が当時世間一般まで広まっていたかは定かでは無いが、共産主義のこのような性質から考えても、既存の思想とは到底相容れるようなものでは無い事は示しているし、世界の一部とは言えない規模の識者が、共産主義を恐れていた事も良く分かる。少なくともrekihikoさんが仰るような、「パール判事は反共イデオロギーで目が曇り、世界情勢に対する事実認識がめちゃくちゃだ」などという決め付けが、極めて一方的で、また不当な評価である事も示していると思っている。

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しかも、共産主義が第二次大戦以上の、20世紀最大の惨劇をもたらしたという結果を見た現在、パールの分析の正確さや先見性に感心するのが普通の感覚であり、これが「反共イデオロギー」で判決書の枠まで越えたものだなどという解釈は、どう見ても尋常のものとは思えない。(パール真論:176ページ)

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正直rekihikoさんとの議論で、いまいち焦点があっていないように感じている。私なりに考えた限りでは、どうもrekihikoさんは「世界の大多数が考えている事が正しい」という観念が強いようである(あながち間違っている訳では無いのだが)。「パール判事の意見は少数派で、大多数の判事は日本を有罪だと判断している。だから日本が有罪であるという認識が正しい」などと言う陳腐な意見もそうであるが、パール判事を無理やり国際常識に当てはめ、外れていたらそれを間違いだと決め付けているだけである。以前も言った通り、国際常識に反するからパール判事の意見には意味が無いなどと言う主張を私は全く支持しない。国際常識に照らし合わせる事に過剰な価値を見出す考えを否定はしないが、それを元にパール判事を批判したところで、無意味で空虚な意見にしかならない。

この「共産主義」に関するパール判事の記述は、共同研究「パール判決書(上)」の501ページから507ページまでの範囲である。無理強いするつもりは全く無いが、是非この部分だけでも読んで頂きたい。その上でなお「パール判事が自身の反共イデオロギー共産主義をこき下ろした」などと言われるのであれば、私からは何も反論する事は無い。黙って白旗を揚げる事にする。る。