(読書感想文) 中里成章氏著「パル判事 インド・ナショナリズムと東京裁判」


思ったよりも読みやすい内容で、すらすらと読み終える事が出来た。

全体的な感想としては、パール判事の生い立ちやその経歴について、極めて丁寧に纏め上げており、大変勉強になったと感じている。また中里氏は当時のインドの政治や風土にも非常に知識豊富であり、そのような面でも貴重な情報を得る事ができた。「パール判事の所属した法曹界が右派であった為、パール判事自身も右寄りだった」というような少々強引とも言える推論もところどころ見受けられるのだが、少なくともパール判事の生い立ち、経歴に関しては概ね客観的であると感じている。

しかしながら、パール意見書についての解釈についてはやはり相容れない部分もある事は確かで、当エントリーではそちらを中心に扱いたい。


まず断っておく必要があるが、本書の中で、パール意見書の批判として意味を持つ部分は、115ページから154ページまでの範囲である。
何故かと言うと、パール判事の生い立ちや思想信条は、パール意見書には一切反映されていないという前提があるからである。そのようなものが意見書に書かれているのであれば、それを意見書の中から具体的に見つけて提示しなければ意味はない。パール判事が学生時代にどのような人生を歩んでどのような思想の持ち主であったかは、私個人としては興味深いし有益ではあるが、パール意見書の正否を直接判断出来る材料にはならないのである。よって私は、基本的に本書でパール判決書について書かれた部分に搾って、反対意見を書く事にしたい。

中里氏の意見全てに反論出来れば良いのだが、私自身の無知もあり、反論の仕方が良く分からない箇所も多い。特に「共同謀議」についての記載は、中里氏の見解が正しいのか、パール判事の見解が正しいのかが私には判断する能力がない。そこで、下記2点に搾って反論させて頂く事にした。

1)南京事件における事実認定
中里氏は、パール判事の特定の事件に対する事実認定の軽率さを批判している。

張作霖爆殺事件」と「柳条湖事件」については、以前の記事でid:Apemanさんより指摘のあった内容とほぼ同一の内容であるので省く。
 http://d.hatena.ne.jp/syachiku1/20120212/1329042782

南京事件について、簡潔に言えば、中里氏はパール判事の見解が混乱気味であると評している(143ページ)。

具体的には、日本軍の残虐行為を告発した証人の証言に一方的に疑念を投げかけて、「信用できない」と言い切っているのに、最終的にはろくな証拠も挙げずに南京事件を事実と認めたという点が矛盾しているという事らしい。

確かにこれが直接殺害事件や強姦事件を起こした張本人に対する裁判であるなら、支離滅裂であると非難されてもおかしくはないだろう。ただ南京事件で争われている事案が一体何であるのかを確認する事によって、この一見矛盾したとも取れるパール判事の「事実認定」を理解出来ると思うのである。

まずもって、弁護側も事実の有無を争っていた訳では無い事を明らかにする必要がある。以下は、清瀬一郎弁護人の冒頭陳述である。

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「日本の一部の軍隊に依って中国において行われたという残虐行為は遺憾なことであったが、しかしながら、これは不当に誇張され、ある程度、捏造までもされている」
「我々は、被告の誰もがかかる事を命じたり、授権したり、許可したり、並びにそういう点に関する法律上の義務を故意に、または無謀に無視した事のない事を証明するため、あらゆる手段を尽くすであろう」(パール真論:184ページ)

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東京裁判における)南京事件の争点は、その行為を被告が「命令、授権、許可」したのか、またはこれを阻止しなかった不作為責任があったかであり、犯罪事実そのものの有無は問題ではなかったのである。弁護側も検索側の証拠には反駁し、虚無の事実であると主張した部分も確かにあるが、あくまで弁護の重点は被告個人の責任問題に置いていた。
パールの判決(事実認定)は、清瀬の冒頭陳述をほぼ全面的に認めたようなものである。裁判官が、弁護側の主張を超えてまで弁護側に有利な判断を下すわけがない。(パール真論:185ページ)

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パール判事の事実認定がいい加減に見えるのは、犯罪の有無そのものが争われておらず、「あった」という前提で議論されているからである。これは、「南京事件」に限らず「張作霖爆殺事件」と「柳条湖事件」にも共通して言える事であるが、パール判事がそれを事実と認めたか否かは別段深く見る必要はないと思う。訴追されている内容について、どのように判断を下したのかがそもそもの問題なのである。またマギー証言に疑念を抱いた事についても、中里氏は(判事が)ろくな根拠も挙げず、一般論を持ち出して証人に対しての不信感を書き立てるだけの内容であると批判しているが、パール判事が何故その証言に疑念を持つに至ったのかは、きちんと「意見書」の中で明示している(パール真論:332ページ)。根拠が無い訳でも何でもない。


2)パール判事の「反共主義
中里氏は、パール判事が「反共主義」という自身の思想信条を意見書に持ち出し、日本の中国侵略行為を正当化したと主張しており、その根拠を2つ程述べている。ただその内一つは、「社会主義者ネルーインド首相を名指しで批判しているから」(152ページ)などとという意味の分からない理由であり、失礼ながら中里氏の想像の域を出ていない為、取り立てて反論する意義を感じていない(ネルー首相が共産主義者だったからパール判事が批判したという因果関係を客観的に証明するのは不可能である)。

もう一つは、「共同研究 パール判決書(上)」から引用した文から推察したものである(150ページ)。

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「通常、どんな国でも他国にたいしてたんにその国内で、あるイデオロギーが発展したという理由だけで、その内政に干渉する権利はもっていないのである。しかしながら中国における共産主義は、(中略)国民政府の現実の対抗者となったのである。それは自己の法律、軍隊および政府を持つばかりでなく、自己の行動地域さえも持っていた。その結果、共産主義の発展は、事実上においては、まったく外国の侵入に匹敵するものであった。それで、中国に権益を有する他の諸国が、その権益を保護する為に中国の中に入り込み、共産主義の発展と戦う権利をもつであろうかということはたしかに適切な問題である。」(『判決書』上 503ページ)

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この判事の文言だけを見れば、「パール判事」が共産主義を警戒しており、それに他国が干渉するのは正当な権利であると考えていると見る事が出来そうであり、要するにパール判事が反共主義者でありかつ、その思想を意見書の中に持ち出したと解釈する事も可能であろう。事実中里氏はそのように主張しているように見受けられる。

ただ結論から申し上げると、それは誤解である。

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「かような事情において一般に感じられていることは、共産主義の発展は正当な観念によって導かれておらず、したがって共産主義者はそのほかの世界にとって真に信頼のおける安全な隣人ではないという事である。」(『判決書』上 504ページ)
これは、当時共産主義に世界の人々がどんな感情を持ったかを論証したにすぎず、パール自身のイデオロギーによる既述ではない。それは続けてこう書いていることでも明白だ。
かような感情が正当なものかどうかは、本官の論ずるべきことではない。このような感情は、世界のもっとも賢明な人々がかならずしも一様に抱いていたところではなかった。」(『判決書』上 504ページ)
(パール真論:175ページより)

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パール判事はあくまでも「反共が日本の行動の説明として全く信用できると述べているだけ」であり、別に自身がそれをどう思ったかなどを意見書に記している訳では無いのである。またこれも誤解されないように注意すべき事であるが、パール判事が共産主義についてどのように感じていたのかは関係ない。問題なのは、「反共」という個人的な思想信条がパール意見書に影響しているか否かなのである。中里氏は上記がパール判事の考えそのものであると誤解しているようである。

余談ではあるが、中里氏は本書の10ページにおいて、「パール意見書を初めて正しく読んだのは家永三郎だ」と、家永氏の解釈を肯定している。家永氏は、パール判事が反共主義者でかつ、その思想を意見書に持ち出したと主張した人物である。失礼ながら、この10ページの既述を見た時点で、中里氏がパール意見書をどのように解釈しているのかは大方想像がついていた。

なお中里氏は、パール判事が1950年代に来日した際の「非武装・中立論」の講義内容は、かつて意見書で自衛戦争を肯定していた事と食い違いがあると指摘している(208ページ)が、それこそ「パール判事が自身の思想信条を意見書に持ち込まなかった何よりの証拠」と言えるのでは無いだろうか?パール判事を「反帝国主義者」で「反共主義者」と断定した氏としては不本意であろうが、どちらかと言うとパール判事の公平さの論調をかえって補強してしまっているように見える。


本書の目的は、右派による「パール判事の神格化」の過程を暴く事であるらしい。ではそれを暴く中里氏が中立的な立場にいると言えるのかについては敢えて述べない事にする(想像はつくが)。パール判事を持ち上げている右派全員に、何らかの邪念が無いかと言われればそれは分からないし、それ自体には私は興味が無い。以前にも書いている事ではあるが、支持者が右派であろうが何だろうが、パール意見書の公正さには何ら傷が付かないのである。中里氏はパール意見書の内容を大体批判的に見てはいるものの、失礼ながらその批判が妥当であるかという点については、少々疑問が残る内容であると言わざるを得ない。少なくとも「パール意見書」を理解する上での史料としてはうかつには活用出来ないというのが私の感想である。

(繰り返しになるが)パール意見書の解釈については同意出来ない部分が多いとは言え、パール判事の一生を詳細に書き綴った部分は本当に興味深く読ませて頂いた。パール判事の生い立ちや経歴に限れば、中里氏は極めて丁寧に纏め上げられていると思う。それだけでも有意義な読書だったと感じている。


※まだ一回読んだ時点での読書感想文である為、読み落とした箇所があるかも知れないので、必要であれば今後も適宜補足していくつもりである。
※私は概ね「パール判決書」と記載してきたが、混乱を避ける為当エントリーでの呼称は「パール意見書」で統一させていただいた。