広田弘毅の死刑判決(後)

広田弘毅の死刑判決(前)」
http://d.hatena.ne.jp/syachiku1/20120422/1335096695

上記の続きである(タイトルを若干変更した)。

昭和20年12月2日、広田弘毅に「A級戦犯容疑者」として逮捕令が発令される。なお12月6日には近衛文麿に逮捕令が発令されたが、12月16日に服毒自殺している。この知らせを受けて広田は「近衛も死んだかァ・・・」と嘆息まじりの声を家族に漏らしたそうである。広田が巣鴨に入ったのは1月15日である。

前編の経歴を見れば分かる通り、政治家時代の広田は軍部に散々苦しめられた。日本人の多くがそれ知っているからか、巣鴨プリズンでも広田に同情的な声を掛ける者が多く、「広田さんは何かの間違いです。すぐに出られますよ」とも言われたそうであるが、広田は決して楽観しなかったと言われる。

なお、広田の逮捕後に妻の静子が自殺する。遺書は無く動機は明確になってはいないが、自身が玄洋社員の娘であることが広田に不利になる事を恐れたのではないかと推察されている。知らせを聞いた広田は、二度、三度とうなずくだけで、何も話さなかったといわれている。また静子の死後も、広田が家族宛に書いた手紙の宛名は最後まで「シヅコドノ」だった。

東京裁判の公判中は沈黙を貫いた。この広田の証言拒否の姿勢の理由にはいくつかの説があるが、はっきりとは分かっていない。広田の弁護人は、裁判長と衝突して辞任したものがいるなど、弁護陣が安定していなかったとされる。この事から「弁護方針が間違っていたのでは無いか(要するに広田に沈黙するように指示した)」と言う意見もある。また、「黙っていれば自分は助かる」という浅はかな目論みがあったと主張する(どう見ても広田に良い印象を持っているとは思えない)識者もいるようである。

同じく逮捕された木戸幸一は、軍部に責任転嫁する証言を行い自己弁護を行っていた。また海軍の場合は、責任を山本五十六などの死者に負わせる事に終始した。広田の場合も、木戸のように軍部、もしくは既に死亡した近衛に責任を負わせれば助かったのでは無いかと言われている。弁護士は何度も裁判で弁明するように促したそうである。また同じ戦犯指定を受け拘留された佐藤賢了にも、「戦争に負けて殺されるのはわれわれ兵隊だけで沢山だ。あなたのような外交官など早く帰ってください」と、広田に証言台に立って無罪を主張するように説得されたが、広田は頑なに拒否したと伝えられている(佐藤は巣鴨拘留時に広田の人柄に傾倒したそうである)。

広田が頑なに証言を拒んだ理由は広田自身しか分からない以上、推測でしか無いのだが、まず広田は自身の戦争責任を明確に認めている。彼は暴走する軍部を抑制する役割を担っていたが、結果としてそれを果たせないばかりか、自身の外相在任時に支那事変が起こってしまっている。戦争を防げなかった事を悔やみ、その全責任が自分にあると認識していたようである。また、彼が何らかの証言をする事により、他の文官を巻き込む事になる事を恐れていたとも考えられる。この辺りは広田に対する印象にも左右されそうではあるが、結果として広田は一切の弁解を行わなかったのである。この姿勢はある意味東條英機にも通じる部分があると言える。

昭和23年11月12日、広田に絞首刑の判決が下る。ドキュメンタリー映画東京裁判」で、各被告がそれぞれの判決の言い渡しを受ける場面があるのだが、その中で特に印象に残ったのが東條英機広田弘毅である。東條は判決を聞きながら軽く頷くなど、むしろ絞首刑を喜んでいた風にすら見えた。実際A級戦犯の代表格として扱われた事もあり、本人を含め誰もが予想していた結果であった事を考慮しても、顔色も変えず(むしろ喜んでいるように見える程)に判決を聞く度胸は流石である。広田の場合、本人が絞首刑を予想していたのかは分からないが、動揺とか喜んでいるとか以前に、どうと言う事もなさげな態度だった。法廷を去る間際に傍聴席にいた自身の娘に軽く会釈をしていたのも印象的である。後述するが広田の死刑判決は方々に波紋を呼んだにも関わらず、当人はどこふく風だったようである。

広田が死刑になった根拠はいくつかあるが、やはり「日中戦争時に外相であった事」が一番大きなポイントだったようである。ただ広田自身は軍国主義者とも見なされなかった上に、別に本人の意思で率先して戦争を始めた訳でも無い。広田を弁護するだけであれば、「軍部が全て悪い」の一言で片付けられる程である。しかし上述の通り広田が全く弁明しなかった事に加え、玄洋社との関わりがある事により立場が悪くなっていた事なども少なからず判決に影響したのでは無いかとされている。なおパール判事は勿論であるが、オランダのレーリンク判事も広田を無罪としている。11人の裁判官の内、6対5の1票差で死刑が決まったとの事であり、判事団の中でも少なからず揉めていたのでは無いかと推測される。

広田の死刑判決には異論が出た。全国から数十万人規模の減刑嘆願署名が集まった(しかし広田の家族は広田の意思に従い嘆願書を提出しなかった)。弁護人は広田の覚悟に感銘しつつ、なおの事見殺しに出来ないと訴願書を書いた。何より驚くべきは、アメリカのキーナン首席検事ですら不満をぶちまけた事だろう。「なんというバカげた判決か!広田が死刑などとは全く考えられない。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑までではないか!」と発言したと言われる。


東條英機は、日本史上最悪のタイミングで権力者となった事から不運な人物と見る事が可能である。広田弘毅もまたろくでもない時期に外相をやらされた不運な人物だと言えるのでは無いだろうか?外交官時代から広田には出世欲など皆無だったと言われている。首相、外相にも本人の意思でなった訳でもなく、むしろ本人が辞退しようとしていた事からもそれは伺える。首相時代、外相時代の軍部の弱腰に見える姿勢を批判する声はあるが、2・26事件直後の時期に軍の意向を無視して政権運営を行うというのは酷な話だろう。広田はこの非常時に政治の空白を作らないよう、ギリギリの努力を続けていたのである。勿論責任のある立場にいた時期に戦争が起きた事も事実であり、責任が全く無いとまでは言わないし、当の本人が責任を認めている。しかし彼の行為はあくまでも「失政」と言う事は可能であっても「犯罪」と言えるものでは到底無いというのが正直な所である。

参考文献:『いわゆる「A級戦犯」』

・本文で触れた映画「東京裁判

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