松井石根に「罪」はあるか

松井石根の死刑判決は妥当か?」
http://d.hatena.ne.jp/syachiku1/20120422/1335051935

上記エントリーに対し、トラックバックを頂いた藤原彩女さんへの返信である。

トラックバック先の記事)
「刑の軽さ、罪の重さ(それは歴史修正主義へ繋がるのか?)」
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/175163/54541270

対話形式(というのだろうか?)で拙ブログの記事を取り上げて頂いたのは初めてである。改めて感謝申し上げたい。

まず私が上記エントリーで、「東京裁判で提出された南京事件の証拠の数々が杜撰極まりないもの」だったと書いた点については、私に南京事件そもものを語る知識は無く、事実関係に絡む箇所について安易に口出し出来る立場には無い以上、安易に杜撰等と評価したのは軽率だった。この点は反省したいと思う。

当記事では、松井石根に罪があるかという論点に絞って書いておきたい。

>「松井大将は死刑判決を下されるべき妥当性はあったか?」という話と「松井大将に罪はあるかないか?」という話は別だよな?

忌憚なく言わせて頂くが、松井石根は無罪である。東京裁判における訴状について、パール判事が無罪としている事が何よりの根拠である。少なくともパール判決に従う限りにおいて、松井を法的に犯罪を犯した者と見なす事は出来ない(松井に限らずA級戦犯全員に言える事でもあるが)。

ただ当然ながら、こんな乱暴な論法で納得してもらえるとは思えない。藤原彩女さんの記事を拝見する限り、「罪」の定義を明確にする必要があると思われる。

以前も引用した事があるが、ドイツの哲学者であるカール・ヤスパースによると、戦争の罪は以下の4つに分類される。

 ・刑法上の罪
  その審判者は裁判所である。

 ・政治上の罪
  その審判者は戦勝国であり、後々の結果を憂慮する政治的狡知や自然法国際法に基づいて行われる。

 ・道徳上の罪
  その審判者は自己の良心であり、身近な愛情ある人間との精神的交流である。

 ・形而上的な罪
  審判者は神だけである。

藤原彩女さんが仰る松井の「罪」が、「道徳上の罪」に該当するのであれば概ね正しいと言えるが、それを根拠に松井を犯罪者であると言う事は出来ない。道徳上の罪は自己の良心が判断するものであり、他人が責め立てるような性質のものでは無い。この「道徳」が条約により「法」に昇華する事で、初めてそれを罪であると追及できるようになるのだ。

ちなみに、松井は自身の道徳上の責任を明確に認めている(「アレは現場の師団長の暴走」などと言って逃げている訳でもない)。パール判事はそのことに対して一切触れていない。あくまでも当時の国際法上、松井の行動を「罪」と言えるかどうかにおいて、「罪はない」と言っているだけである。

勿論法律に拠らない観点(道義的見地)から松井含む当時の日本の指導者達の「責任(罪)」を糾弾する立場を取るのであればそれは自由である。しかしできれば「罪」という表現は余り用いないで頂きたいものだ。ある人物のある行為を「罪」と言うには法的根拠が必要になる。

「法なければ罪なく、法なければ罰なし」

これは法治主義の根本原則である。