「運動」にイデオロギーを持ち出してはならないという教訓

私はぎりぎり1980年代生まれの為、1970年代を肌で体感してはいないのだが、出来事を軽く調べる限りでも色々と考えさせられる事柄が多い。

この年代は全体的に、よど号ハイジャック事件あさま山荘事件などの、左翼によるテロ行為に目が行く。たまに特番等で古い映像を見る度に見かけるような、赤いヘルメットを被って火炎瓶を片手に機動隊に突っ込む若者の姿は非常に印象深い。

まずもって、ネット右翼から見た左翼というのは、「戦争反対を念仏のように唱えているだけで平和が来るとでも思っている頭の中がお花畑の連中」と言ったところだろうが、少なくともこの時代の左翼はそんなに生易しいものでは無い。文字通り力ずくで目的を達成しようとしており、暴力・破壊・殺人行為などを一切厭わない、良い意味でも悪い意味でも行動力が旺盛な連中なのである。今のサヨクに、安保闘争のような、暴力に訴えてまで主張を通そうとするような気骨は流石にないように思う(あって貰っても困るが)。

当時と比較すれば、若者を中心に右傾化が著しくなった現在の日本では、これらの左翼の暴動は強く軽蔑されている。私も彼らの主張や行動を一切支持する気は無い。ただ、彼らの行動を「愚か」の一言で片付けるのは適切では無いという気がするのである。まず今日の日本国内において、大っぴらに共産主義を信奉する者など(サヨクも含め)ほとんどいない。共産主義国家が20世紀の世界でどれほどの惨劇をもたらしたかを知っているからだ。しかし1960年代となるとどうか?ソ連はまだアメリカと世界を2分する大国であり、中国やカンボジアの内情も余り公になってはいなかった。北朝鮮を「地上の楽園」であると評する者がいるなど、そもそも共産主義に対しての危機感がそれほど強く無い時代だったと推測される。当時の左翼は、世界の共産化こそが平和への道だと心から信じていたのでは無いかと思われるのである。仮に私達が1950年代に生まれ、1960年代の安保闘争や1970年代の学生運動に直面したとして、今と同じような嫌悪感を抱く事が出来たかどうかは疑問である。むしろ安易に共産主義に感化されて、学生運動の一員として参加したとも限らないのでは無いだろうか?要するに現在の価値観で、一方的に当時の学生運動を「愚劣」だと非難するのは、同じく現在の価値観で旧日本軍の行為を「悪」と断ずる現代のサヨクと余り変わらない事を意味しているのでは無いかと思うのだ。

過去を一切振り返るなとか、それに触れるななどとは言わない。そこから何かを学び取り、教訓にする事は重要である。しかし過去の人間の行いを、それより未来の人間が一方的に「善」だとか「悪」だとかと決め付けても仕方が無いと思うのだ。

1970年代の左翼による暴動は多岐に渡るが、「成田闘争」や「沖縄返還闘争」など、直接関係している訳でも無いのに介入して事を壊しているというケースが多いように思える。「成田闘争」では、農地を奪われた現地の農民や、成田空港開港後に騒音に悩まされる地元住民などが抗議活動を行うならまだしも(国側の対応に不備があった点も否めないし)、利害関係のないはずの左翼団体が抗議活動に参加して過激なテロ行為を繰り返し、不必要に社会不安を増大させてしまう結果となった。

現在の日本においては、「反原発運動」が盛んであるが、どうもこの運動にも少なからず左翼団体が参加しているようである。これまで、左翼が介入する「運動」がろくな結果をもたらした試しが無い事から、はっきり言って「反原発運動」自体に物凄い胡散臭さを感じている事は否めないのだが、参加しているのが全員左翼であるとは限らないし、主張内容はあくまでも「原発の廃止」でありそれ自体にイデオロギーが関係する訳でも無いので、左翼が関与しているという理由だけで頭ごなしに否定する気は別に無い。

ただ、あるブログのコメント欄で、反原発デモで右翼と共闘する事を是とするか否かという点について激しい議論が交わされている。いわゆるサヨク内の「内ゲバ」のようなものでそれ自体はどうでも良いのだが、結局サヨクが反原発運動にイデオロギーを持ち出してしまっているという印象を強く受ける事例である。サヨクが運動に参加してはいけないとは言わないが、運動にイデオロギーを持ち出してはならない。下らない意見の食い違いで内部闘争にまで発展したりすれば、1970年代の左翼の二の舞になりかねない(あそこまで過激な事は流石にしないと思うが)ばかりか、イデオロギーに関係無く本心から原発を無くしたいと願う他のデモ参加者も同一視されてしまい、「運動」自体が説得力を失ってしまう恐れすらあるのだ。


※追記
どうやらトラックバックを削除されたようなので、リンクを削除した。かなり気に障るような事を書いてしまったのかも知れない(笑)。申し訳ない。